George Frideric Handel




ヘンデル(8)
 ヘンデル時代のバロック・オペラは、後年のソナタやカウボーイ映画(西部劇)と同様、きまった形式の芸術だった。一定の約束ごとがあって、台本は古典や神話に題材をとったものがほとんど。登場人物にはブラダマンテ、オロンテ、メリッサ、モルガナ、アルシナといった名前が付けられた。名前と同じで、人物もまた人工的だった。バロック・オペラの台本作者は、登場人物の性格の書き分けにはあまり注意を払わなかった。ヘンデルがこれらの台本につけた曲は陽気だったり、勇ましかったり、時には心痛むものだったが、その場のムードを決めるのは登場人物の性格ではなく、曲であることの方が多かった。プロットにはほとんど動きがなく、ヘンデルの作品も「衣装をつけたコンサート」の異名をもつバロック・オペラの例外ではなかった。演劇としてみれば、それらは「完全に静的」に近かった。
 これらのオペラの基本はダ・カーポ(繰り返し部分を持つ)アリアだった。この種のアリアでは、歌手は全曲を歌い終えると最初の部分に立ち戻る。この繰り返しの部分では、メロディーを潤色し、飾り立て、華やかにするために、秘術を尽くすのが歌手の務めだった。ヘンデルのオペラは主として、このダ・カーポ・アリアの連続で、これに少数の二重唱と、さらに稀に、より大きなアンサンブルが挿入された。コーラスやオーケストラの間奏はほとんどなかった。バロック・オペラのもう一つの特徴は、聴衆のお行儀にあった。ヘンデル時代のオペラ観劇は、今日のように厳粛な空気の中では行われなかった。人々は他人に見てもらうために、また、お気に入りの歌手の声に合わせて歌うために、オペラに出かけた。
 劇場内でトランプをしたり、おしゃべりを楽しんだり、歩き回ったり、オレンジやナッツ類を食べたり、唾を吐いたり、気に入らぬ歌手に「シーッ」と軽蔑の声を上げたり、野次ったりが、極めて普通のことだった。歌手たちも、演技中にボックスの友人に挨拶したり、他人が歌っている時に私語を交わしたりした。舞台で演技しようとする者など、誰もいなかった。
 この種のオペラでは、目立つような歌い方がどうしても必要だった。ヘンデルはそうした歌手を揃えていた。カストラートがいなくなってから、声楽技術は衰退の一途をたどっている。偉大なカストラートは「歌う機械」、つまりは楽器にほかならず、時代を超越した声楽界の奇跡である。ヘンデル時代以前から、カストラートは人々のアイドルだった。彼らは巨大な富を蓄え、見栄っぱりで甘えん坊、そして恐ろしくわがままで、しかもひどくエキセントリックだった。音楽史の上で最初にスターの座を獲得したのが彼らだった。

ヘンデル(9)
 カストラートとは、去勢された歌手のことである。古代に存在し、12世紀に復活した。教会が女声を禁じ、代わりにカストラートを用いたからである。去勢手術は思春期の前に行われた。何年もにわたる厳しい訓練のあと、彼らは女の声と男の肺を持つ歌手として教会に送り込まれた。その歌唱があまりにも見事だったために、彼らは教会を出て公衆の前でも歌うようになった。バルダッサーレ・フェリ(1610〜1680)がカストラートの最初のスターだった。
 彼らの技術は信じられないほどだった。中には音域が四オクターブにも及び、高音度のハ音よりも高いイ音や、さらにロ音をさえ完全に出すことができる者もいた。しかも彼らの声は長続きした。キャファレリの声は70歳になってもまだ若々しかった。オルシーニは73歳の時、プラハで美声を披露、嵐のような称讃を集め、その10年後にはオーストリアのマリア・テレジア女帝の前で歌った。102歳の長寿を保ったバニエリは、97歳まで歌い続けた。
 しばしば彼らは肉体に奇形を生じ、特大で、太っていて、腕や足は骨と皮ばかりなのに、胸部は樽のようにぶくぶくと肉がついていた。彼らの声は、女性の声質に属するが性的特徴のないもので、あらゆる情報が示すところでは、驚くほど甘かった。聴衆を常に驚嘆させてやまなかったのは、息の長さだった。ある者は一つの音を優に1分余も歌い続けることができた。当時のオペラ・ファンの楽しみの一つは、カストラートとトランペットまたはフルート奏者との腕比べだった。が、奏者が真っ青になるまで吹き続けても、カストラートは常に勝利を収めた。ファリネリの青年時代、あるオーボエ奏者がリハーサルの時よりもずっと長く、最後の音を引っ張った。ファリネリは少しも動じずに歌い続け、オーボエが息切れしてからもまだ、同じ呼吸を保ちながら歌いにうたった。ファリネリの肺が破裂しはすまいかと、満場水を打ったように静まり返る中で、彼はさらに即興の難しいカデンツァまでつけて歌い終えた。しかも最後まで一呼吸もしなかったという。
 カストラート歌手の最盛期はほぼ1720〜1790年で、ニコロ・グリマルディ(ニコリーニ)、フランチェスコ・ベルナルディ(セニシーノ)、ガエターノ・マイオラーノ(キャファレリ)、さらには史上最高とうたわれるカルロ・ブロッシ(ファリネリ)らが活躍した。いずれもニコリーニが生まれた1673年から、キャファレリが死んだ1783年の百余年の間に花を咲かせた。オペラ界最後のカストラートは、ジョヴァンニ・バチスタ・ヴェルッティで、マイヤベーアのオペラ『エジプトの十字軍』(1824年)には、彼のために書かれたパートがある。

ヘンデル(10)
 カストラートの血筋は、現在知られている限り、アレッサンドロ・モレシ(1858〜1922)の死によって絶えた。モレシはシスティナ礼拝堂(バチカン)合唱団の一員で、20世紀の最初の10年代に実際にいくつかのレコードを残している。このレコードを聴く者は、誰もが全身に震えを生じる。その声は男でも女でもない音色のアルトで、得たいの知れぬ、物悲しい、人の心に切々と訴えかける性質を持っている。
 声楽面でカストラートに求められたものは、コントロールと柔軟性である。ヘンデルのオペラの楽譜を拡げれば、32分音符が際限もなく続き、歌手に息継ぎの機会を与えないコロラトゥーラ楽節がいくらでも目に飛び込んで来る。このパートは特に高音部を使って書かれているわけではなく、それにいずれにしろ、当時の聴衆は高音部になど関心がなかった。テノールの高いハ音は、ロマンチック(空想的)な発明物で、事実、テノールが主役になること自体が大いにロマンチックだった。バロック・オペラではテノールは通常、脇役だった。
 カストラートが容易に高音度のハ音を歌えたのは事実である。そしてフルート奏者兼作曲家のヨハン・クワンツ(1697〜1773)の言葉を信じるなら、ファリネリは高音のハ音よりも上のヘ音を完全に歌いこなせた。しかし、カストラートは普通、そんな曲技にはのめり込まなかった。彼らが誇りとしたのは、信じがたいほどの息の長さと、音域を乱したり、声に無理を強いられている様子を見せたりすることなく、複雑な修飾部を楽々とこなす能力だった。
 ヘンデルの時代には女性歌手も同じ能力を持っていた。中でも最も有名だったのが、フランチェスカ・クッツォーニとファウスチナ・ボルドーニだった。二人はともにロンドンでヘンデルのオペラを歌い、しばしば同じ役を演じた。クッツォーニは背が低く、太って、醜く、意地悪で、演技力は皆目なかった。それはちょうどカストラートが長身で、肥満し、ぶかっこうで(第二次性徴の欠如によりヒゲが生えず、しばしば女のように胸がふくらんでいた)、演技力を欠いていたのと同じだった。これに反しボルドーニは魅力的な容貌で、当時としては完全な演技力を持ち合わせていた。当然のことながら二人は互いに憎み合い、その争いは1727年6月6日、ボノンチーニのオペラ『アスティアナッテ』の上演時に頂点に達した。
 バーリントン派のお気に入りのボルドーニと、ペンブローク夫人のサークルの一部を支持者とするクッツォーニは、聴衆内の応援団にあおられて、金切り声を上げ、髪を引っ張り合い、爪を立て合う大喧嘩を舞台の上で演じた。新聞はこれを大々的に書き立て「ファウスチナ、クッツォーニ両夫人による恐るべき血みどろの戦いの完全な真相」と題して、取っ組み合いの手順の一部始終を記録したパンフレットまで印刷され、編集者は二人に対し「公開の席での再戦」さえ提案した。この永遠に銘記すべき晩に、偶然にもこの劇の興行主だったヘンデルは、クッツォーニを「女悪魔」、ファウスチナを「魔王の甘えっ子」、さらにはどちらも「あばずれ」だと怒鳴りつけた。

ヘンデル(11)
 ヘンデル時代の聴衆は、カストラートと紋切り型のバロック・オペラを喜んで受け入れた。しかし、やがて、そうしなくなった。今日では、ヘンデル時代の歌手と同じ歌いまわしができる者は誰もいず、また勿体ぶった台本にすばらしい音楽をつけて埋め合わせすることも、不可能である。オペラ製作には高度の様式化が必要となった。学者の中には、カストラートの役をバリトンかバスに書き換えよ、と主張する者もいる。それはともかく、声楽の楽譜は今日では単純化され、ヘンデル・オペラのレーゾン・デートル(存在理由)の多くは失われてしまった。特に『ジュリアス・シーザー』や『アルシナ』のリバイバル公演が示したように、それらはまだ十分に楽しめるが、カストラートが存在しない今日の再上演は、原曲の翻案でしかない。
 ヘンデルのオペラのうち何作かは、その驚くほど多くの部分がオリジナルの音楽ではない。ヘンデル時代の聴衆は、彼が他人の作品を借用することには寛大だった。この問題はヘンデルの伝記を書く場合には面倒なテーマで、筆者はその説明に苦しんで七転八倒するか、あるいは単に遺憾の意を表するかだった。はっきり言えば、彼は盗作の常習犯であり、存命中からその点でも有名だった。作曲家の道を歩み始めた頃から彼はカイザー、グラウン、ウリオらの作品を失敬しては自分の名で発表した。過労で倒れた1737年以降は、特にこの傾向が酷くなった。しかし、彼の同時代者たちは盗作に寛大だった。アベ・プレヴォーは1733年に書いている。「とはいえ、一部の批評家たちは彼がリュリから多くの美しい旋律を借り出したこと、特にフランスのカンタータをイタリア風に改作したことを非難している。が、たとえそれが確かだとしても、大した罪ではない」と。
 善意に解釈すれば、オペラ劇団の運営や、歌手たちの喧嘩の仲裁、新作オペラの製作、折々にやらねばならない宮廷用の作曲と、多忙を極めていたヘンデルには単に、何から何まで自分でこなす時間的余裕がなかった、ということなのであろう。そこで彼は他人の題材を借用し、大概はその過程で原作をより良く改作して、自分の作品として押し通したのだ。ヘンデルの盗作リストは、驚くほど長大なものになるはずである(バッハも他人の作品を書き直したが、それらは翻案または編曲と呼ばれるべきもので、他人の作品を用いて利益を図った証拠はない。グルックは自分の曲を別の作品の中で使っているが、他人の物を盗用してはいない)。
 1720年代の末までに、ロンドンのイタリア・オペラ・ブームは下り坂となり、英語で歌い、当時のウォールポール政府を痛烈に諷刺するバラード・オペラ『乞食オペラ』の成功で、ほぼ完全に息をとめられた。ジョン・ゲイの台本にジョン・クリストファー・ペプシュ(1667〜1752)が曲をつけた『乞食オペラ』は、ヘンデルのどのオペラよりも長生きし、1728年の初演以来、シーズンのプログラムからはずされたことがない。大作だはないが、真の傑作である。おかげでヘンデルのイタリア・オペラ劇団は破産した。しかしヘンデルは、この商売で巨万の富を築いていたので、自分の財産の中から1万ポンドをさいて、キングズ・シアターを本拠とする新歌劇団を間もなく発足させた。同劇団は1737年まで続いた。リンカーンズ・イン・フィールズにライバルの歌劇団が生まれなければ、この劇団はもっと長持ちしたかもしれない。当時のロンドンは、二つの常設歌劇場を置くほど大きくはなく、この時にはさすがのヘンデルも大損をした。

ヘンデル(12)
 イタリア・オペラは息絶えたかに思われ、ヘンデルも別の分野、英語によるオラトリオに転進した。この方面でも彼はすぐ大衆の支持を得た。1738年には『サウル』を、翌39年には『エジプトのイスラエル人』を、そして翌々41年には『メサイア(救世主)』を世に送り出した。彼がものしたオラトリオは20曲に近く、1752年作曲の『エフタ』が最終作だった。51年までに始まっていた眼病で視力を完全に失わなかったら、間違いなくもっと多くの作品が生まれていたことだろう。ヘンデルのオラトリオに対する関心は近年、次第に高まりつつあるが、その大半は、いまなお演奏の機会を与えられずにいる。
 ヘンデルはなぜオラトリオを書き始めたのだろうか?かつての伝記作家たちは、軽度の脳溢血と精神障害で倒れた1737年以降、ヘンデルの信仰心が篤くなったためだと考えた。しかし、真相はもっと俗っぽさに満ちたものだろう。彼は、自らの稼ぎに依存するプロの作曲家、つまりは商売人だった。イタリア・オペラの人気がすたれさえしなければ、彼はオペラを書き続けていたはずだ。自分の書いたオラトリオを聴きに大勢の聴衆がやってくることを知ったから、オラトリオを書いたに過ぎない。一部のヘンデル研究家、特にポール・ヘンリー・ラングは「オラトリオは決して宗教色濃厚な作品ではない。聖書に題材を借りたドラマチックな作品だが、教会とは全く無縁だ」と主張している。
 その是非はともかく、ヘンデルは、オラトリオの作曲がいちばん儲けになる仕事だということを知った。とにもかくにも、彼はロンドンで最も有名な人物の一人であり、また演奏者としてもものすごい人気を集めていた。そこで彼は、自作オラトリオの発表会では必ずオルガンのソリストを務め、おまけに客の入りを良くするために、コンチェルトを一つか二つ弾くことすらいとわなかった。彼の目が見えないためファンは同情し、それが助けにもなった。『サムソン』の初演の際、テノールのジョン・ビアードが盲目の作曲家のわきに立ち、
  月の陰に、日は隠れぬ
  全き闇に、金の環残し
と歌う時、聴衆の間からはすすり泣きの声がもれたに違いない。
 ヘンデルのオペラとオラトリオの大半が、今日、『メサイア』をほとんど唯一の例外として、忘れられている現実は奇妙というほかない。存命中のヘンデルは史上最大の音楽家の一人とみなされ、死後も、その見方を変えねばならぬ状況は生まれていない。英国における彼の評判は、死の直後も、また19世紀も、一貫して高かった。もっとも、その尊敬は主としてオラトリオ作曲家としてのヘンデルに向けられていた。彼の強い影響力は英国の音楽界を窒息させたほどで、エドワード・エルガー(1857〜1934)の登場まで、英国には国際的に有名な作曲家は育たなかった。

ヘンデル(13)
 ヘンデルのおかげで英国の作曲家は、名を成すために精巧な声楽曲を作らされ、英国中がオラトリオ・ブームにわいた。このブームは19世紀末まで続き、文豪ジョージ・バーナード・ショウの「英国民はレクイエム(鎮魂曲)に、ゾクゾクするような快感を覚えている」との警句を生んだ。合唱曲は国民の財産と考えられていた。ヘンデルの死のわずか1年後、ウィリアム・マンなる文士は「イングランド全土の村々にある音楽グループは、オラトリオ・ブームが首都から中小都市に広がってからというもの、英国国教会に朗詠、聖歌、賛美歌の類を導入しなければ絶対に満足しなくなっている」と書いた。市民階級のパラ(聖杯をおおう布)が英国の音楽にかぶせられ、毎年行われるヘンデル音楽祭は宗教的行事の色合いを深めた。ヘンデルがオラトリオを宗教的作品のつもりで書いたかどうかにかかわらず、大衆はそう解した。
 1813年4月の「チェスター・アンド・ノース・ウェールズ・マガジン」は「ヘンデルの音楽は、聖なる神と救世主を記念し、人としてわれらが讃え、クリスチャンとして感ずべき神への帰依の恍惚状態を、われらの心にもたらしてくれる」と書いた。150年余にわたり、英国の音楽はヘンデルの巨大な掌中にあり、それとは別種の衝撃を与え得たのはメンデルスゾーンだけだった。英国の作曲家は一人として、彼の影響下から逃れることができなかった。
 しかし20世紀に入ると、ヘンデルへの評価は英国でも下がり始めた。今日、彼の音楽が演奏される機会の少なさは驚くほどである。彼のオペラは存命中から忘れられた。19世紀から20世紀の大半を通じ、英国以外の国で大きな人気を集めた彼の作品はただひとつ『メサイア』だけだった。オーケストラがヘンデルの『合奏協奏曲』を演ずることは稀で、その状況は今日も変わらない。最も人気のある管弦楽曲『水上の音楽』は、ハミルトン・ハーティの編曲で演奏される方が圧倒的に多い。バイオリニストがヘンデルを取り上げるときも、ナチーズの編曲による『ソナタ・イ長調』や『同ニ長調』など、速度を早めたロマンチックな曲以外は振り向きもしない。ヘンデルのオルガン協奏曲にはすばらしいものがあるのに、コンサート・ホールで演奏されることはほとんどない。
 オペラの大半も埋もれたままである。ドイツでは第2次大戦前、ヘンデルのオペラの復活を図る試みがあったが、ファンの支持を得るには至らなかった。彼は事実上、一つだけの作品で知られる音楽家となり、『メサイア』を除くヘンデルのほとんど全作品が恒久的レパートリーからはずされ、僅かにいくつかが時々、思い出したように演奏されるだけである。それは、バッハの作品がオーケストラやソリスト、合唱団の手で世界中で演奏されているのと著しく対照的である。

ヘンデル(14)
 ヘンデルが忘れられた理由を確定するのは困難である。もちろん、彼のオペラの上演にはかなりの問題がある。しかし、オラトリオや合奏協奏曲、チェンバロ組曲、宗教曲、カンタータの演奏には、どのような障害もない。そして、これらは立派な曲ばかりである。そのどの曲にも異常なまでの活力と広がり、確信と創意工夫が息づいている。それらはまた、英国固有の特質を備えており、その一部はヘンリー・パーセル(17世紀後半の英国最大の作曲家)に由来する。
 ヘンデルの音楽は、多くの点でバッハよりも近づき易く、理解が容易で、より直接的で、入り組んでいず、メロディー性に富み、男性的である。彼にはバッハのような和声の才能や、完璧な対位法はないが(そんなことはバッハ以外の誰もなしえなかった)、それでもヘンデルの対位法は大胆で、当を得ていた。ヘンデルの伝記作家たちは、ヘンデルの対位法について余計な心配をし、バッハのそれには劣ると書くのが常だった。しかし、この比較には意味がない。二人が目指していた道は全く別だったからである。バッハは息を吸うのと同じ自然さと必然性をもって、いわば対位法的に物を考えた。これに対しヘンデルは、一定の効果をあげる目的で、単なる手段として、より自由な、教科書的でない対位法を用いたにすぎない。
 ヘンデルの音楽は再発見の日を待っている。彼の同時代人は、死後150年でヘンデルが半ば忘れ去られたと知ったら、大いに驚くに違いない。彼らはヘンデルの価値を知り、ヘンデル自身も、自分をウェストミンスター大寺院へ埋葬してくれと求めるほど、それを自覚していた。彼は1759年4月14日、74歳でこの世を去り、悲しみは英国全土を包んだ。無数の追悼文が新聞、雑誌をにぎわせたが、中でも4月17日の「パブリック・アドバタイザー」紙のそれは、各行の頭文字を「ヘンデル」とする手のこんだもので、みごとな出来栄えだった。

  He's gone, the Soul of Harmony is fled!
  And warbling Anfels hover round him dead.
  Never, no, never since the Tide of Time,
  Did music know a Genius so sublime!
  Each mighty harmonist that's gone before,
  Lessen'd to Mites when we his Works explore.

  和声の主(ひと)、君は逝き
  悲しみの天使は舞う、なきがらの上。
  汝(なれ)こそは天地(あめつち)の開けし時ゆ
  比類なき楽の天才。
  君(そ)が調べ、奏(かな)づるに
  なべての楽士、色失いぬ。

                                   main


 

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