George Frideric Handel



ヘンデル(1)
 バッハが「田舎者」で、祖国ドイツを一度も離れなかったのに対し、同時代に活躍したゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(英国ではジョージ・フレデリック・ヘンデルと呼ばれた)はコスモポリタンで、世界各国を歩き回る独立独歩の人であった。彼は職業音楽家としても成功した最初の偉大な作曲家の一人であった。大男で元気者、なまりの強い英語を話す帰化英国人、爆発的な気象の持ち主であると同時に、心やさしく、寛大な博愛主義者、音楽興行で財産を作り、また失った男、レンブラントの名画を含む美術品収集家、オルガンとチェンバロでは当時最大の演奏家の一人、神を信じるのと同じ純粋さで人生にも対した男――それがヘンデルだった。
 ヘンデルは1710年、25歳の時に初めてロンドンを訪れ、市民に強烈な印象を与えた。それは当時、決して容易なことではなかった。時まさに、大した時代だったのである。その頃のロンドンには、才人、文士、奇人、ダンディー、背教者、詩人、エッセイスト、政治家、宮廷関係者が群がり集まっていて、欧州の文化の一大中心地であった。それはある種の閉鎖社会で、ゴシップが乱れ飛ぶ場所でもあった。ジョン・ゲイ(詩人、劇作家)がアレクサンダー・ポープ(詩人)に手紙を書くと、その情報がアーバスノット博士(諷刺作家、医師)に中継され、そこからジョナサン・スウィフト(作家)に伝わるという感じだった。ジョーゼフ・アディソンとリチャード・スティールが編集する二つの新聞「タトラー」と「スペクテイター」がロンドンっ子にとって、またとない情報源だった。数学の概念の多くをくつがえし、数々の新説を導入して、科学者を数世代にわたりきりきり舞いさせたサー・アイザック・ニュートンは、宗教について思い悩んでいた。数多くの推量、中傷、噂がロンドンの辻々を飛び交っていた。
 隠し事など特に宮廷においてはありえなかった。ハーヴェイ卿がいつもながらのスキャンダルを起こすとか、クイーンズベリー公爵夫人の侍女の一人が王室の一員といちゃつくとか、S卿がB夫人の寝室からこっそり抜け出すところを目撃されるといった事件があれば、噂はアッという間に全ロンドンに広まった。しかしウイットとゴシップの吹聴は別物だった。スウィフトはかつて、サー・チャールズ・ウォーガンに書き送った。「ご存じのように、ポープとゲイと私は人々を楽しませ賢くするために、あらゆる努力を払っております。ならず者とバカを除けば敵はおりません」と。
 ザクセン生まれのたくましい異邦人ヘンデルが飛び込んだのは、こうした社会だった。世間知らずで横柄な彼は早速、アディソンやスティールを敵にまわすことになった。アディソンの立場は全く公平というわけにはいかなかった。ヘンデル到着の直前、アディソンはオペラ用のリブレット(台本)を書き、トマス・クレイトンなる無名の作曲家に音楽をつけさせた。『ロザモンド』と題されたこの抒情的なオペラの上演は、見るも無残な失敗に終わった。ちょうど「英語によるオペラ」の一派を確立しようと目論んでいたアディソンが自作の失敗に怒り狂っていた時期に、ヘンデルのロンドン・デビュー公演が大成功を収め、しかもそれがイタリア語によるリブレットであったため、彼は直ちにヘンデル批判の猛攻撃を開始した。イタリア・オペラに対する「スペクテイター」紙の論評ほど荒唐無稽で、英国の論争形式に悪しき寄与をしたものは他にない。

ヘンデル(2)
 ヘンデルはデビュー公演の成功でペースをつかみ、以来多年にわたり、イタリア語によるオペラを上演し続けた。彼に立ち向かう作曲家はいずれも長続きしなかった。ヘンデルはイタリア・オペラのブームを生み、その副産物として大きな富を築いた。その衝撃は驚くほどだった。ゲイはこのブームについて、極めて苦々し気にスウィフトにあて書いている。
 「去勢された男か、イタリアの女性でない限り“私が歌いましょう”とは言えぬ世の中になりました。あなたの頃の詩がそうだったように、今や誰も彼もが歌について、あれやこれやと大いに批評し合っている始末です。メロディーの区別もできない連中が、ヘンデル、ボノンチーニ(1670〜1747)、アッティリオらのスタイルの違いを毎日のように口にしています。・・・・・ロンドンやウェストミンスターで交わされる上品な会話では、セネシーノが不世出の偉人ということになっています」と。セネシーノ、本名フランチェスコ・ベルナルディは当時のロンドンで活躍した、有名な「カストラート(去勢)」歌手の一人だった。「カストラート」については後に詳述する。
 民衆と社会はこぞってヘンデルのオペラを支持したが、新聞、雑誌の中には彼を攻撃するものもあった。にもかかわらず、最も教養ある英国民、ひいては欧州諸国民はヘンデルを史上最大の音楽家とみなした。在世中の彼に対する讃辞はあり余るほどだった。「ハノーバーからやってきたヘンデルは、おそらくはオルフェウス以来、最も豊かな音楽の才能に恵まれた天才である」――と、パーシヴァル子爵は1731年8月31日の日記に書いた。『マノン・レスコー』の著者アントワーヌ・プレヴォーは『正と反』(1733年)の中で、ヘンデルについて「どのような芸術の分野であれ、これほど多産で、しかも完全な作品を作り続けてきた人物は他にいない」と称賛した。
 〔パーシヴァル子爵は、綴り方が今より自由で制約の少なかった時代に多くの人がしたように、発音通りに言葉を表記している(HENDELと書いてある)。ヘンデル(ドイツ語ではHÄNDELと書く)は英国に定住してからは、Aのウムラオトをつけなかったが(HANDELと署名した)、発音は以前ヘンデルで、そのためにしばしばこう綴られてきた〕
 パーシヴァルやプレヴォーの評価はほんの一例に過ぎない。存命中からこれほど大きな讃辞を呈され、また書き記された作曲家はほとんどいない。
 しかも歴史に名を残す有名作曲家のうち、フランツ・シューベルトを除けば、ヘンデルほど個人的情報に乏しい者は皆無である。オットー・エーリッヒ・ドイッチュの大著『ヘンデル――記録に見るその生涯』をひもとけば明らかなように、ヘンデルに関する資料はいくらでもある。が、自分自身について彼ほど秘密を守った作曲家は他にない。ヘンデルの年表には欠落がある。特にイタリア滞在中の時期に。彼がどれほどの財産を蓄えたか、その作品が生涯を通じてどう受けとめられたかはわかっているが、彼が何を考えていたかについては、ほとんど何も知られていない。

ヘンデル(3)
 後世に残った少数のヘンデルの書簡は、いずれも公用または他人行儀のもので、個人生活には全く触れていない。作曲家として、また興行家として、あるいは演奏家、多彩な時期の最も色どり豊かな人物の一人として、公衆の目にさらされる機会が多かった彼にとって、これは決して偶然のことではない。それはあたかも、ヘンデルに隠すべき秘密があったかのような印象を与える。彼は自らのプライバシーを守り、公的生活と私生活を画然と区別していたのだ。
 ヘンデルに関する情報の現在の主要な源は、ジョン・メインウェアリング師が執筆した伝記である。出版はヘンデルの死の翌年の1760年で、一人の音楽家について書かれた伝記としては最初のものである。このこと自体が、ヘンデルの生存中の名声を証明している(バッハの伝記が初めて出版されたのは、死後52年を経た1802年のことである)。だがメインウェアリングは、ヘンデルを直接知っていたわけではない。そこで多くの情報を、ヘンデルの秘書ヨハン・クリストフ・シュミット(英国名=ジャン・クリストファー・スミス)から引き出したが、そのため記述には不正確な個所が多い。チャールズ・バーニー著『音楽史概観』(1776〜1789)にもヘンデルの生活のスケッチや、各種の情報が多量に盛り込まれている。バーニーは少なくともヘンデルの知人であり、ヘンデルの肉体的特徴に関する描写には信用がおける。
 彼によれば、ヘンデルは大男で太っており(英国の別の音楽評論家サー・ジョン・ホーキンスは「ヘンデルの太い足は湾曲していた」と書いている)、動作が鈍く「全体的印象はいくぶん鈍重かつ不機嫌で、たまに微笑でも浮かべると、黒雲の間から太陽が姿を見せるといった感じだった・・・・・。彼は立ち居振る舞い、会話の両面で衝動的、乱暴かつ横柄だったが、意地悪や悪意とは全く無縁だった」という。これは公正な評価だと思われる。偉大な作曲家ヘンデルは時に激情を爆発させたかもしれないが、内に悪意を秘めていたはずはなく、人々との応待にも変わらぬ誠意をこめていた。
 バーニーによると、ヘンデルには「天性のウイットとユーモア」があり、英語になまりはあったものの、話上手だった。「もしも彼がスウィフトのような英文の名手だったら、スウィフトに劣らぬほど多くの名文句を後世に残していただろう」と、バーニーは書いている。ハンブルク時代のヘンデルと極めて親しかった当時一流の作曲家ヨハン・マッテゾンも、ヘンデルのユーモアの天分を認めている。ヘンデルはある時「五つまで勘定できないかのようなふりをしてみせた・・・・・。真面目くさった人々の腹を抱えさせて、自分はクスリともしないのが彼の特徴だった」と。
 ヘンデルはこの平衡感覚を晩年まで保ち、自身の肉体的苦痛までも冗談のタネにした。彼は1752年(67歳)に視力を失い、その後も作曲とオルガン演奏を続けたが、ある時、かかりつけの医師サミュエル・シャープが「ジョン・スタンレーをあなたのコンサートの一員に加えてみたら・・・・・」と提案した。スタンレーは盲目の有名なオルガン奏者だった。ヘンデルはそれを聞くと高笑いして「シャープ先生、あなたは聖書を読んだことがないんですか?“盲人、盲人の手を引かば、二人はともに穴に落ちん”と書いてあるじゃないですか」と答えたという。

ヘンデル(4)
 旅行の経験が多く、多数の名士と接する機会も多かったヘンデルは、円満な人柄だったに違いない。彼が絵画の良き鑑定家だったことはよく知られている。彼はハレ大学に学んでおり、文学、哲学、芸術などについて、ちゃんとした教育を受けたはずである。しかしヘンデルの秘密癖のために、彼の教養の幅を探るには数々の推量を行わねばならない。彼の性生活についても、頼りは推量だけである。彼は生涯独身を守り、女性との付き合いはすべて他人に知らせなかった。若い頃、何人かのイタリアの歌手との仲を噂されたことはあった。メインウェアリング著の伝記の一冊には「G.F.ヘンデルは、愛する女性(単数)からの助言以外はすべて無視したが、彼の愛は概して長続きせず、また常に自己の職業の範囲内にとどめられた」との書き込みがある。筆跡から推して、ジョージ三世(英国王として1760〜1820年在位)のものとみられる。
 彼の活動から考えて、ヘンデルはすべての興行主がそうであるように、ギャンブラーだったと思われる。彼の気短さは伝説的で、特に指示に従わぬ歌手に対しては酷かった。このケースで最も有名なのは、ソプラノのフランチェスカ・クッツォーニが、オペラ『オットーネ』の中のアリア『ファルサ・イマジネ』を楽譜通り歌うことを拒否した時の話。自制心を失ったヘンデルは、彼女の腕を掴むと、窓から放り出さんばかりの勢いでこう怒鳴った。「マダム、あんたが本当の女悪魔だってことはわかってます。だが私はベールツェブーブ(魔王)なんですゾ」
 ヘンデルは神を信じていたが、狂信的ではなかった。ホーキンスに対しては「聖書に曲をつける」ことの喜びをもらしている。ヘンデルは大食漢で、有名な漫画家ジョーゼフ・グーピーは、ブタの顔をしたヘンデルがワイン樽に腰をかけ、食卓に山海の珍味を並べている絵を残している(ヘンデルが遺言の中でグーピーに言及しなかったのは、この漫画のせいだろう)。ヘンデルは上流社会へ自由に出入りした。彼は決して芸術至上主義の音楽家ではなかった(いずれにせよ、当時、その種の芸術家がいたはずはないのだが・・・・・)。彼はエンタテイナーとなることを決して嫌がらなかった。こんな愉快な話がある――1734年4月12日、リッチ卿夫妻、シャフツベリー卿、ハンマー卿夫妻、バーシヴァル夫妻らが出席したパーティーの席上、ヘンデルは午後7時から4時間も、チェンバロを弾いたり、アマチュア歌手に伴奏をつけたりして、自らも大いに楽しんだ、というのである。

ヘンデル(5)
 ヘンデルはバッハが生まれたのと同じ年、1685年の2月23日に、ハレ(中部ドイツ)で生まれた。少年時代のことはほとんど知られていないが、幼時からオルガンをよく弾き、10歳に満たぬうちにワイセンフェルス(ザクセン)のヨハン・アドルフ公爵の注目をひいたことはわかっている。ヘンデルは、ハレのルーテル派教会のオルガン奏者フリードリッヒ・ツァッハウの許に送られ、オルガンを正式に学んだ。ツァッハウ以外の教師についたことがあったかもしれないが、その名は知られていない。1702年までにヘンデルは、大聖堂のオルガニストに任ぜられた。が、彼は教会のオルガン奏者として終わる人間ではなかった。早くから劇場にひかれ、1703年には欧州で最も有名かつ活発なオペラの中心地の一つ、ハンブルクに出た。ここで彼は、若きドイツの作曲家ヨハン・マッテゾン(1681〜1764)と親交を結び、また、作曲を本格的に始めた。彼の生涯がほぼ終わりを告げたのも、このハンブルクにおいてだった。マッテゾンはヘンデル同様、強固な意志と粘り強さを兼ね備えた人物で、二人の青年はある論争をした。
 当時ハンブルクでは、マッテゾン作曲のオペラ『クレオパトラ』が上演中だった。おまけにマッテゾンは、その中で主役の一つを自ら引き受けていたが、おそらくは自らの多才をひけらかそうとしたのだろう、歌い終わるとオーケストラ・ピットに降り、チェンバロの首席を弾いていたヘンデルに代わって演奏しようとした。が、ヘンデルは押しのけられて黙っているような男ではなかった。口論ののち頭にきた二人は外へ出て、剣を抜き合った。マッテゾンの突きはヘンデルの上着の金属ボタンに当たり、剣は折れた。ほんの1センチでもホコ先がズレていたら・・・・・。それはともかく、この事件を機に二人は仲直りし、1707年に作曲したヘンデルのオペラ処女作『アルミーラ』では、マッテゾンがテノールの主役を演じた。
 同じ年、ヘンデルはローマへ出かけた。同地には三年滞在し「イル・サッソーネ」(ザクセン人)と呼ばれ、例によって大きな印象を残した。イタリア滞在中のヘンデルについては、ごく僅かしか知られていないが、逸話の類はいくつかある。言い伝えによると、ヘンデルは、彼とちょうど同年生まれの作曲家で、鍵盤楽器用のソナタや練習曲を数多く生んだことで知られるドメニコ・スカルラッティ――彼はこれら珠玉の小品を550曲以上も書いた――と、チェンバロおよびオルガンの引き比べをした。会場はオットボーニ枢機卿邸で、チェンバロは引き分け、オルガンではヘンデルの圧勝だったという。
 メインウェアリングは「スカルラッティは相手の勝利を自ら宣言するとともに“ヘンデルの演奏を聴くまではオルガンという楽器にこれほどの迫力があるとは知らなかった”と率直に告白した」と書いている。二人の名演奏家が同じ曲を演奏して、疲れ果てるまで技を競い合うことがなくなって、音楽界は何物かを失った。プロイセン大王の前で行われたモーツァルトとクレメンティの競演は引き分けに終わり、ベートーヴェンはアベ・ゲリネクをはじめとする挑戦者をすべて斥けた。リストとタールベルクも、パリのベルジオジョーゾ王女のサロンで腕比べをしている。

ヘンデル(6)
 もう一つの逸話は、偉大なバイオリニストで作曲家でもあったアルカンジェロ・コレルリとのものである。ヘンデルの作品を演奏中のコレルリが、高音部で難渋しているのに業を煮やしたヘンデルは、欧州最大のビルトゥオーソの手からバイオリンをひったくると、どう弾くべきかを実演してみせた。温厚で寛大な人柄のコレルリは、少しも異議を唱えず「ねえ、ザクセンさん、この曲はフランス風でしょ。この手のものにボクは弱いんですよ」と言ったという。この逸話のポイントは、ヘンデルと付き合ったすべての音楽家が、彼に敬意を払ったことにある。彼は誰とでも会い、あらゆる勉強をし、イタリアの旋律の、太陽のような輝きに影響された。ドメニコの父、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)は、特に大きな印象をヘンデルに与えた。
 1710年、ヘンデルはイタリアからハノーバーに戻り、選帝侯つきの宮廷音楽家となった。同年末、休暇で英国へ渡ったが、そこではイタリア・オペラが音楽的催し物の中で最大の流行となり、「カストラート」歌手が、その声の力と輝きとで人々を驚倒させていた。ヘンデルはここで英国民の求めに応じ、オペラ『リナルド』を作曲した。1711年作曲のこのオペラは、大成功を収めた。彼はハノーバーに帰ったが、眠気を誘うようなちっぽけな宮廷があるだけで、活躍の場も小さいハノーバーと、富と名声を得る機会の多い大都市ロンドンとを比べて見れば、彼がどんなことを考え始めていたかは容易に推察できよう。翌1712年、ヘンデルは「適当な時期に戻る」との条件つきで、再度英国に渡る許可を得た。しかし、実際には「適当な時期」は生涯到来しなかった。
 再度のロンドン入りを果たすとすぐ、ヘンデルはオペラ『忠実な羊飼い』を作曲、その直後に、ユトレヒトの戦勝を記念する、雄大な公式行事用の作品『ユトレヒトのテ・デウム』を作った。彼はまた、アン女王の誕生日を祝う曲を作り、200ポンドの年金を下賜された。それから2年、ヘンデルは無断で、ハノーバーの宮廷へは全然帰らなかった。彼に帰る気があったのかどうか、それはわからない。しかし1714年にアン女王が逝去すると、事態は彼のままにはならなくなった。雇用主のハノーバー選帝侯がジョージ1世として、英国王の座に就いたからである。ヘンデルはその頃、自分の身に何が起こるかと、さぞ不安な日々を過ごしたに違いない。
 しかし、何事も起きはしなかった。日ならずしてヘンデルは、ジョージ1世の寵愛を取り戻し、年金も倍増した。ヘンデルは『水上の音楽』によって国王の信頼を回復した、との面白い説があったが、今日では疑問視されている。この説では、ジョージ1世は1717年、テームズ川で船遊びを楽しみ、その際演奏された『水上の音楽』を褒め讃え、その場でヘンデルと仲直りした、となっている。船遊びは事実であり、また船中でヘンデルの組曲が演奏されたことも記録に残っている。1717年7月19日の「デイリー・クーラント」紙は「国王はこの曲が大いにお気に召され、行き帰り併せて3回以上も演奏を命ぜられた」と書いている。だが、この結構な伝説にとっては不幸なことに、両者は1717年以前にすでに和解を遂げていた、と思われる。

ヘンデル(7)
 国王との関係改善で精神的に安定したヘンデルは、ロンドンで次々にオペラを書き上げたが、その際、創造面での配慮とともに、製作面、経済面にも気を配った。彼は英国貴族社会、特にバーリントン卿、チャンドス公爵らと末永い交際を結んだ。ヘンデルは一時期、バーリントン卿のピカデリーの豪邸に住み、ジョン・ゲイの注目をひいた。英国の文人は、芸術家が誰をスポンサーとしているかに、常に大きな関心を示した。バーリントン邸は、芸術家や文士が気軽に出入りすることで有名で、ゲイは自作の詩の中にこう書き記している――

    されどバーリントンの
     麗しき宮殿は残りぬ。
    美しさ満ちあふるその邸内で
     ヘンデルは弦をかき立て
    心とろかす旋律を奏でぬ。
     聴く者は身にしびれ生じ
    心をよそに移したり。

 ヘンデルはジョージ1世からの四百ポンドのほかに、ウェールズ王女からも二百ポンドの年金を得て、ロンドンの社交界に飛び込んだ。彼は貴族たちの後援でオペラ劇団を主宰、欧州各地に歌手スカウトの旅に出た。この間、奔流のように彼のペンから流れ出たオペラのうち主なものは『忠実な羊飼い』(1712年)、『テセオ』(同)、『シーラ』(1718年)、『ラダミスト』(1720年)、『フロリダンテ』(1721年)、『オットーネ』(1723年)、『ジュリアス・シーザー』(1724年)、『タメルラーノ』(同)、『クセルクセス』(1738年)である。彼はこれらの作品を、驚くほどのスピードで書き上げた。
 イタリアの台本作者ジャコモ・ロッシは1711年、ヘンデルが『リナルド』作曲の際にみせた手早さについて、こう書いている。「今世紀のオルフェウスであるヘンデル氏は、作曲にあたり私に台本執筆の時間をほとんど与えず、驚くべきことに、わずか2週間で一分のスキもない完全な曲をつけてしまった。驚嘆すべき天才とは彼のことだ」と。ロッシは気づかなかったが、ヘンデルは『リナルド』の作曲にあたり、以前に書いたオペラのメロディーをいくつも借用している。が、彼が極めて筆の速い作曲家であったことは事実である。彼は生涯に40以上のオペラを作った。そのすべてがイタリア語で、今日「バロック・オペラ」と呼ばれている種類のものである。

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