Johann Sebastian Bach




バッハ(11)
 また、バロック時代になって古い教会旋法が姿を消し、その音階と関連音調が結合して、今日までこれが使用されている。さらにリズム概念が発達して、楽譜に音勢を示した縦線が導入された。また、ソナタ、交響曲、協奏曲、序曲の直接の端緒となった諸形式が発達した。しかしバロックは、トッカータ、ファンタジア、前奏曲、リチェルカーレなど、それ自体の自由な形式も持っていた。
 バロック時代は文化的な中産階級の興隆を見た時代であった。音楽は宮廷や教会から都市部へと拡大し、中産階級市民の多くが音楽の楽しみを要求した。これが今日の公開演奏会のハシリであった。音楽家たちは、時としてヘンデルの場合のように、驚くべき財政的成功を基礎として、こうした要求に応え始めた。音楽学校が設立され、喫茶店までがお客を満足させるために音楽の演奏を始めた。バッハもこうした企画に関係し、長年の間ライプチヒのツィンマーマン喫茶店で、毎週金曜日の午後八時から十時まで、定期演奏会を指揮した。参加者は(1736年の発表によると)「主として当市の学生であり、すぐれた音楽家がまじっていて、彼らの一部は周知のように後世、有名な大演奏家になる」。
 バッハによってバロック音楽は頂点に達した。彼は過去の一切を集大成し、将来に来るものの多くを見越していた。彼はバロック音楽を自分のものにした、学識豊かな音楽家であるだけでなく、すべての音楽に精通していた。たしかに彼は、当時最高の教養を備えた音楽家の一人であり、ヨーロッパに起こりつつある現象を知りぬいていた。古代であろうと当代であろうと、入手できるあらゆる音楽を知り、吸収したいという意欲に燃えていた。彼が音楽史に関心を持つ学者であったわけではない。例えば彼が中世音楽を発掘しようと骨を折ったという証拠はない。こういう仕事におそらく彼は興味がなかったであろう。圧倒的で、強制的でさえあった彼の関心の的は、テクニックであった。作曲家たちがどのようにして曲を組み立てたか。彼らのアイディアの本質は何か。こうした問題についてバッハは、飽くことのない職業的好奇心を持っていたようである。それは意識的または無意識的に、自分を他の作曲家と比較したかったからであろうか。新しい音楽が演奏されると、出席できる場合はいつでも、これを聴きに出かけた。そして聴けないものに関しては、常に楽譜を読んでいた。もちろんバッハは、会計係が帳簿を、通勤者が夕刊を読むのと同じくらい容易に、楽譜を読むことができた。
 青年時代の彼は職務から抜け出しては、特にヴィンセント・リューベックやブクステフーデら大オルガン奏者の演奏を聴きに行った。彼は有名なヘンデルの演奏を聴けなかったことを、人生の大痛恨事の一つとしていた。彼はパレストリーナ、フレスコバルディ、レグレンツィの古い音楽も、ヴィヴァルディ、テレマン、アルビノーニの新しい音楽も、知っていた。彼はリュリからダングルベール、クープランに到る、フランス派の音楽を熟知していた(イギリス派の音楽を知っていた形跡はない)。ドイツの作曲家中、彼はフローベルガー、カール、フックス、シュッツ、タイレ、パッヘルベル、フィッシャーの音楽を評価していた。ドメニコ・スカルラッティの合唱曲も知っていた。幼年時代に音楽に対する無限の食欲を持ちながら育ったバッハは、死ぬまでこの食欲を満足させることができなかった。

バッハ(12)
 大体において、おそらく彼は自分で音楽を学んだようである。バッハ、モーツァルト、シューベルト級の天才音楽家は、そもそも大した音楽教育を必要としない。彼らの精神はあらゆる音楽衝動を直ちに吸収する吸い取り紙のようなものである。正しい方向を指示して、ちょっと後押しするだけでよい。これはバッハについても言えることであった。最初からバッハは、あらゆる所から音楽を吸収して自分のものにした。これはオペラを除いた音楽の全領域にわたっていた。バッハの音楽には無限の変化がある。最悪の作品では(バッハは粗悪な作品は作らなかったが、退屈な作品を書くことがあった)バッハの音楽は性急で苛立っている兆候が見え、特定の場合の要求に応えるきまりきった作品を、一気に片付けようとしている様子がありありとわかる。だが彼の平均点は極めて高く、最上の場合、彼の作品は音楽芸術の頂点に位置している。
 バッハは当時の公式を利用して、これを新鮮で独創的に聴かせることができた。なぜなら、これらの公式は自身の公式であったからである。『平均律クラビーア』に収められた四十八の前奏曲とフーガは、ショパンの練習曲と同様、1曲ごとにユニークである。西欧人の偉大な知的離れ業の一つと万人が讃える『フーガの技法』は巨大な作品であり、未完に終わったものの、これも尽きることのない多様性と想像力の満ち溢れた、一連の対位法的変奏曲で構成されている。
 バッハが『フーガの技法』をどのように演奏して欲しいと思っていたのか、だれにもわからない。オルガン曲としてか、あるいはオーケストラ曲なのか、それともこれらの中間的性格のものなのか。楽器が指定されておらず、ドイツの学者フリードリッヒ・ブルーメは、バッハ自身が『フーガの技法』のような作品が実際に演奏されるかどうか、また演奏が可能かどうか、といった問題には関心がなかった、とまで主張している。「この作品の中で彼は、ベラルディ、スウェーリンク、スカッキ、タイレ、ウェルクマイスター、G.B.ヴィターリを経由してパレストリーナ時代のローマ派から自分が継承した、完全な対位法の技術の伝統を残したいと望んでいた。これは"高踏的な"作業であり、全く抽象的な理論を黙々と伝達することである」とブルーメは書いている。多分そうであったかもしれない。しかし、演奏されない抽象音楽を書く作曲家がいったいいたであろうか。どうも疑わしい。いずれにせよ『フーガの技法』は対位法を至高の域にまで持ち込んでいる。
 この作品の複雑さをざっと説明してみると―まず四つのフーガから始まるが、うち二つは主題を提示し、別の二つはこの主題を反対側から提示する(つまり表裏一体である)。二重フーガ、三重フーガ、いくつかのカノン、三対の投影フーガがある。カール・ガイリンガーの表現を借りると「バッハはすべての声部をまず原初の形で提示し、次に反射像のように、これを完全にひっくり返す。鏡の投影を一層リアルなものにするため、第一フーガの最高音部が第二フーガの低音部となる。アルトがテノール、テノールがアルト、バスがトレブル(ソプラノの最高音部)と変化し、その結果、12番の2は12番の1の逆立ちのように見える」。

バッハ(13)
 二百年以上にわたって音楽家は、バッハが『フーガの技法』で対位法について知られた一切を要約したあと、自身の大天才を付け加え、壮大さと詩情において唯一無比である作品を創造した、その信じがたいテクニックと創意に接して畏怖の念に駆られてきた。これはバッハの主要作品として最後のものであり、彼はこれを完成させなかった。巨大な三重フーガを作曲中、彼は対位法に自身の姓を入れることを決めた(ドイツ方式ではBは変ロ調、Hはロ調の本位記号)。彼の名前が出現したところで自筆の楽譜は停止する。トヴェイ、リーマンら一部音楽家は残りを補足してこの作品を完成させたが、これらがコンサートで演奏されたことはないし、演奏するべきではない。B・A・C・Hの主題を聴いたあと、フーガ開始と同時に突然訪れる沈黙に接する感情的ショックは、人間を圧倒する経験である。
 多声音楽はバッハの一側面にすぎない。彼は組曲またはパルティータの名称で一連の舞踏楽章を、あるいは敬虔なカンタータを、あるいは『ロ短調ミサ曲』や『マタイ受難曲』のように雄大な音楽を、あるいは壮大な構想と圧倒的な響きを持ち、手足を縦横に動かさねばならないオルガンのための徹底的な技巧曲を(これらオルガンのための作品はバロック・オルガンで演奏するべきであり、決してロマンチック・オルガンで演奏してはならない)、あるいは無伴奏バイオリンまたはチェロのための複雑な作品を、あるいはショパンとワーグナーの到来まで色調の強さで比類のなかった『ゴールドベルク』という一連のハープシコード変奏曲(とくに25番の変奏曲はすばらしい)を――以上の音楽をバッハは書くことができたのである。
 バッハの音楽を同時代の作曲家から画然と引き離しているのは、何にもまして和声の強さである。バッハの音楽精神は全然因襲的ではなく、彼の作品は意外性に満ちている。予想外のもの、通常の規則からはずれたもの、その材料からバッハしか発想できなかったもの、で溢れている。例えばヴィヴァルディの合奏協奏曲は、主として主和音、つまり支配的ならびに従属的和音をもとにして進行し、安全圏の中で音調を探究している。バッハの音楽では全く新しい和声の言葉が作られる。すぐれた和声感はほとんどすべての大作曲家の特徴であり、臆病で創意のない同時代の作曲家との格差をつける要素である。同時代の作曲家の大半が規則に縛られていたのに対し、バッハは自分が規則を作った。すでに青年時代から、彼は音楽の和声上の可能性を懸命に調べていた。彼が譴責を受けたのは、このためであった。聴衆はこのように大胆な音楽になじんでいなかった。アルンシュタットで当時21歳のバッハは、これまでに「合唱の中に奇妙な変奏部をたくさん挿入し、奇妙な楽音をたくさん混合した。このため教会は混乱に陥った」として非難された。年を取るにつれて、彼の和声上の冒険はますます顕著になった。

バッハ(14)
 バッハは自分が引き継いだ形式を土台に、これを拡大、改良、精錬することに常に努めていた。彼はクラビーア・コンチェルトを開発した。彼が作った無伴奏弦楽器のための音楽は、その創意、複雑さ、演奏の困難さの点で、他のいかなる作品よりも抜きん出ていた。バッハのバイオリンの腕前はどの程度だったろうか。バイオリンの巨匠でなければ、このような構成を考えつかなかったことは確かである。また当時、世界中でいったい何人のバイオリニストが、このように極度に演奏者を酷使するような難しい曲を正確に弾けたであろうか。
 『無伴奏バイオリン・パルティータ・ニ短調』の巨大なシャコンヌは、これら無伴奏弦楽曲のなかで一番よく知られている。しかし『ハ長調ソナタ』のフーガも同様に力強く雄大な発想である。『無伴奏チェロ組曲』のフーガ楽章もまた、極端に複雑で困難である。当時の名演奏家の一人として、バッハは難曲を弾きこなすことを明らかに楽しんでいた。『ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調』のクラビーア・カデンツァのように、彼の音楽には快適な妙技を思い切って披露させる個所が含まれている。そして彼のオルガン曲の多くは、手足をもつれさせる難曲である。『オルガンのための前奏曲ニ長調とフーガ』の演奏を終えたバッハが「さあ、私を負かせられるかどうか、やってごらん」と挑戦しているという空想が起きてくる。
 バッハは今日用いられている平均律を確立した人物である。それまでも作曲家たちはこの方向に努力していたが、平均律が実際的で、しかもこれしか方法がないことを実証する仕事はバッハに残された。彼の時代までは、異なった音階の半音を意味する中全音律が一般に用いられていた。問題は、全音と全音の間の和声律を一貫させるよう、オクターブの中に全音をいかに配置するかであった。中全音律では、どんな調性でも音階を配分できるが、例えばハ長調に有効な音階は、ヘ短調には有効でない。ドイツの音楽理論家フリードリッヒ・ウィルヘルム・マルプルク(バッハと同時代の人)は「一つの音階を美しく見せようとすると、三つの音階が醜くなる」と述べた。
 イギリスの音楽学者パーシー・A・ショールズは「どの音階楽器にせよ、一音階以上を完全に調律することは不可能である。もしハ調に正確に合わせたとすれば、他の音階で演奏すると途端に、楽音のいくつかが調子はずれになる。中全音律では、完全なのは一つの音だけであった。しかし妥協によって、特定数の音階を耳が許容するに足る程度に完全とし、残りを除外した」と述べた。

バッハ(15)
 ショールズのいう妥協とは、いくつかの音階が収まるように、音階中の個々のピッチを上げたり下げたりすることを意味した。しかしショールズが指摘するように、若干の音階は中全音律パターンから全く離れてしまって、使用不能となる。初期の音楽ではロ長調、嬰ハ短調といった、ごく当たり前の音階がほとんど見られない。しかしバッハは例外であった。アンドレアス・ウェルクマイスターの『音楽の平均律』(1691)を手がかりに、バッハはオクターブを十二の楽音にほぼ平均して分割した。この妥協手段ではどの音階も完全無欠とはならず、あらゆる音階にわずかの不完全さが残るが、この不完全さは耳が許容するに足る些細なものであった。バッハ方式なら、どの音階にでも転調できるようになり、十二の音のいずれもが主音の役目を果たすことができた。彼はこの調律法でどんなことがやれるかを例証するため『平均律クラビーア曲集』を作った。二巻に分かれ、四十八の前奏曲とフーガを含んでおり、それぞれ二曲ずつ長短の全音階で作曲されている。
 近年、バッハの音楽象徴主義に関して多くの著作や論文が書かれている。このアイディアを提唱した最初の一人は、アルベルト・シュヴァイツァーであった。彼は、バッハが基本的に音を用いた画家であっただけでなく、しばしば自分の作品中に恐怖、悲しみ、希望、物憂さなどの特別の心理動機を注入した、と主張した。シュヴァイツァーによると、この動機の意味を解明しない限り、バッハの作品を解釈することは不可能であるという。シュヴァイツァーの主張の大半は、今日では否定されているが、ただ少数のバッハ専門家の間では、バッハの音楽から宗教や数字の象徴を読み取る茶の間遊びが以前行われている。数字をアルファベットの文字に置き換えてみる試みは、バッハ時代でも時々行われていたようである。カール・ガイリンガーが1966年に発表したバッハ伝から引用すれば――「例えば14はBACHを象徴する数字である(B=2、A=1、C=3、H=8)。これをひっくり返すと41になり、J.S.BACHを表す。すなわちJは(アルファベットで)9番目、Sは18番目の文字であり、9+18+14=41となるからだ。バッハの合唱曲の最終作品には、この象徴的方法が暗示的に用いられている」。
 これがバッハの実際に用いた方法だったとすれば、はなはだバッハらしくないことをやったものだ、と言いたくなる。このような頭の体操は、ある種の人たちには刺激を与えるのかもしれない。だが、幸いにも、バッハの音楽はこうした人工的なカラクリがなくても、十分鑑賞できる。バッハのように"正さ"、必然性、知性、音を論理的に並べる手腕をこれほど見事に備えた音楽は、文献資料中に存在しない。そして大作曲家の作品としてバッハほど宗教、特にルター派信仰と密接に結びついた音楽もまれである。バッハは、音楽とは神性の表現であるとまじめに信じていた。彼は宗教音楽の楽譜の始めにJJ(「神よ助け給え」の略語)、終わりにSDG(「神のみに栄光あれ」の略語)と書いた。一、二の学者が、バッハは実は信心深い作曲家ではなかったのだと立証しようとしたが、説得性に不足し、その論理についていくのは困難である。

バッハ(16)
 バッハは(消失したものを含めて)多量の教会音楽を作曲したが、モテットやカンタータ、ミサ曲や受難曲は宗教的感情に満ち溢れており、これらを完全に理解するには、バッハと同様の宗教的基礎、感情と背景そのものを持つことを必要とする。どんな芸術を鑑賞するにしても、鑑賞者が作者の精神過程と一体化することがカギになる。一体化が強ければ強いほど、鑑賞力は深まる。だれでも、教会カンタータ第4番『キリストは死のとりことなられても』や『ロ短調ミサ』の明確な意味は理解できる。しかし精神的託宣や、その表れである実際の宗教的行事との関連において音楽が持つ微妙なニュアンスは、バッハ時代の教会や精神生活と一体化できる人でなければ、完全には理解できない。
 またこのような指摘は、必ずしもバッハの教会音楽にだけ限るのではない。『フーガの技法』のような作品は、自分が対位法で苦闘し、従ってバッハの悪魔の仕業とも言えそうな見事な問題解決法を認識できる人の方が、楽譜も読めない人よりは、ずっとよく理解できる。しかし少なくとも世俗的音楽は、もっと容易に理解できる。それは抽象的であり、バッハの内面の過程に参与しつつ、彼の思考の跡をたどって行くことは、音楽の与えてくれる知的、情緒的喜びの一つである。
 20世紀においてバッハの音楽が提起する大問題の一つは、演奏慣習である。当然ながら、バッハ時代そのままの演奏を再現することは不可能である。あまりに多くの要因が変化してしまったし、どんな時代にも固有の演奏スタイルが存在するからだ。ロマン派は、他のすべての場合と同様に、バッハに対しても非常に自由な態度を取り、自分らの考え通りにバッハの作品を演奏した。ロマン派の演奏慣習は現代まで踏襲され、この問題に真剣に取り組む努力が始まったのはやっと、この数十年来である。熱心な音楽史研究のおかげで、今の音楽家たちは数世代前の人たちより、バッハの演奏様式の特徴について遥かに多くのことを知っている。しかし、それでもまだ十分ではない。ロマン派の演奏慣習を是正しようとして、若い世代の芸術家たちが公認の版本を用い、"正統派"たるべく比較的小さな集団で、バッハを機械的な厳密さで演奏し、歌い、指揮するようになった。だが難点は、こうした音楽では生気が失われることである。人間性、優雅さ、独自の流儀、趣味を奪われたバッハになってしまうのである。
 バッハについて、われわれが一つ知っていることがあるとすれば、それはバッハが情熱的な人間であり、また情熱的な演奏家であったということである。疑いもなく彼は、現代の演奏慣習が許容するよりは、遥かに大胆、自由かつ自然に自分の作品を演奏し指揮した。バッハ自身が弟子のヨハン・ゴットヒルフ・ツィーグラーに語ったところでは、オルガン奏者は単に音を弾くだけでなく、その作品の意味、感情に訴える点など"情緒"を表現しなければならない。ずいぶん皮肉なことには、バカにされていたロマン派の方が結局は、バッハの音楽についての現代の学識には欠けているとはいえ、厳密で融通のきかない今日の音楽家より、本能的にバッハの基本的スタイルに近かったということになるかもしれない。

バッハ(17)
 バッハの死後、彼自身および少数の作品は忘れられなかったが、作品の大半は処分された。彼が死後約75年間無視されたということがバッハ伝記家の信仰のようになっているが、これは全く事実に反する。一つには息子たちが、父に対して愛憎相半ばする感情をもちながらも(父の第二の妻に対してもそうであった。彼らはアンナ・マグダレーナを餓死寸前に追いやり、死後は貧民墓地に埋めた)、父の音楽の普及に努力したからである。ヨハン・クリスチャンは父を「旧弊人」と呼んだかもしれないが、バッハの音楽を当時の多くの演奏家に紹介したのは彼であった。カール・フィリップ・エマヌエルは、バッハ作品の旧式な内容に若干当惑したもようで『フーガの技法』の楽譜銅版を処分してしまったが、それでも最初のバッハ伝(1802年)を書いたヨハン・ニコラウス・フォルケルに貴重な資料を提供した。
 バッハの息子たちは皆、父の名前と名声を広めた。彼らは皆、予期されたように、音楽の道を進んだ。「全部、生まれながらの音楽家だ」と父は誇らしげに息子のことを語った。数人は若死にし、一人は精神薄弱だったが、四人は立派な経歴を歩んだ。
 ウィルヘルム・フリーデマン(1710〜1784)はハレへ行き、次に放浪生活を始め、最後にベルリンに落ち着いた。彼は変わり者で世間に適応せず、大酒飲みだったといわれる。彼は非常な天分を持ち、父親の誇りだったが、目的を果たさずに死んだ。カール・フィリップ・エマヌエル(1714〜1788)は28年間、フリードリッヒ大王の宮廷につとめ、父を上回る大きな名声を獲得した。クラビーア奏者、作曲家、教師で、1768年にハンブルクでテレマンのあとを継いで教会音楽監督となった。作曲家としてのカール・エマヌエルは、当時ヨーロッパを席巻していた新スタイルを代表していた。これは対位法によらない上品なスチール・ギャランで、マンハイム派作曲家が創始し、ハイドン、モーツァルトへの道を開いた。おかしな話だが、彼は左ききのためバイオリンが弾けなかった。
 「ビュッケブルクのバッハ」として知られるヨハン・クリストフ・バッハ(1732〜1795)は、18歳の時から死ぬまで同市でつとめ、父の伝統を引き継いだ。最期の一人は「ロンドンのバッハ」こと、ヨハン・クリスチャン(1735〜1782)で、一家のうち数少ない旅行家の彼はイタリアに行って、自らジョヴァンニ・バッハを名乗り、カトリック教に改宗した。彼の父はこれを好まなかったと思われる。ついで1762年に英国に行き、同地でジョン・バッハとして知られた。社会的にも芸術的にも大成功し、オペラの作曲、ピアノのリサイタル、オーケストラの指揮、音楽教授、など何でも手がけ、少年モーツァルトがロンドンを訪れた時は良き助言者となり、ついには破産して多くの借財を残して死んだ。彼もまた、スチール・ギャランを代表していた。

バッハ(18)
 これら四人のバッハの息子(うち二人はヨーロッパ全土で有名だった)は、老バッハの記憶を新鮮に保つことを助けた。バッハの死後の評価のことを論じる時、いくつかの事柄を銘記しなければならない。公開演奏会という制度は生まれたばかりであった。自分の作品を発表したいと願う作曲家は、使える会場ならどんな所でも使って――貴族のサロンであろうと、舞踏場や歌劇場であろうと、その他何でも(本格的なコンサート・ホールなどほとんどなかったのだから)――自分自身の努力で演奏会を開くのが普通であった。他人の作品を演奏するコンサート・アーチストという概念は、もっとあとになって生まれたのである。ロマン派時代までの音楽は多分に現代(その時代の)芸術であり、過去の作品ではなく当時作曲された作品に関心が集中していた。過去の音楽は顧みられなかった。とにかく、過去の音楽を聴いたり研究したりすることは、極めて困難であった。楽譜はみつからないし、演奏様式も存在しないと同然であった。
 それでもバッハの音楽の力は偉大であり、多くの職業音楽家には知られていた。バッハの音楽が慣例を破って、ライプチヒの演奏曲目に残っているという事態まで起こった。バッハの弟子で、彼の後継者として1756年から1789年まで、聖トマス教会のカントルであったヨハン・フリードリッヒ・ドーレスは、礼拝の際、引き続きバッハの音楽を演奏した。ドーレスはまた、モーツァルトにバッハの楽譜を見せ、モーツァルトは夢中になった。彼は楽譜を研究し、編曲をやり、バッハの対位法に大きく影響された。
 ウィーンのゴットフリート・ファン・スウィーテン男爵は"バッハ教"とでもいうべきもののリーダーであった。彼はモーツァルトとハイドンにバッハの楽譜を見せ、音楽会を催してバッハの作品を演奏した。ハイドンは『平均律クラビーア曲集』と『ロ短調ミサ曲』を熟知しており、楽譜を持っていた。ベートーヴェンは『平均律クラビーア曲集』で育てられた。英国のオルガン奏者兼作曲家のサミュエル・ウェズリー(1766〜1837)は、メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を再上演するずっと以前に、バッハを研究し、演奏し、バッハの普及に努力していた。そしてウェズリーをバッハに紹介したのは、献身的なアマチュアとプロの混成グループであった。
 作曲家兼ピアニストのヨハン・バプティスト・クラマー(1771〜1858)は、1800年以前にバッハ作品を公開演奏しており、彼に続いてアレキダンダー・ベーリ、ヨゼフ・リパフスキ、ジョン・フィールドらのピアニストがバッハに傾倒した。18世紀後期および19世紀初期のヨーロッパの音楽雑誌や音楽書に目を通す労をいとわない者は、「名高いバッハ」に関して述べてある個所が無数にあることを知ることができる。多くの音楽史家は、バッハが死後忘れ去られ、メンデルスゾーンが1829年に『マタイ受難曲』を再上演して初めて、再発見されたと述べているが、これは作り話である。バッハは、少しも忘れられていなかったのである。彼は実に大きな影を残していた。おそらくヘンデルや、現代では忘れられた人気オペラの作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699〜1783)ほどではなかったかもしれないが、それでも大きかった。彼が「完全に無視されていた」という作り話は、このへんで終わりにするべきである。
 バッハの息子たちを最後に、この音楽上の偉大な流れは枯渇した。ヨハン・セバスチャンの直系の男子子孫の最後は、ウィルヘルム・フリードリッヒ・エルンスト(1759〜1845)であり、彼は「ビュッケブルクのバッハ」によるバッハの孫である。バッハの血族は今も健在である。マイニンゲン、オールドルーフ分家のバッハたちは今日でも存在し、1937年になって「チューリンゲン・バッハ家族協会」を設立した。だが、20世紀のバッハ家で職業音楽家は一人もいない。

                                   main


 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送