Johann Sebastian Bach



バッハ(1)
 ライプチヒには、聖ヨハネ教会の扉の近く、南の壁から5、6メートル離れたところにヨハン・セバスチャン・バッハの遺体が埋葬されている、という言い伝えがあった。1894年、教会は改築の準備を始めたが、この改築の結果、バッハの墓地という伝説の場所が破壊される恐れがあった。そこで、ウィリアム・ヒスという解剖学者を首席とする学者グループが、墓の発掘を開始した。学者たちが作業を始める根拠としたのは、バッハの死んだ1750年に樫の棺で埋葬されたのは12人だけであり、その一人がバッハであった、という情報である。
 教会の南の壁付近で三つの棺が発掘された。うち二つは松づくりだったが、一つは樫づくりで状態のよい男性の骸骨がはいっていた。あらゆるテストが行われ、彫刻家カール・ゼフナーが頭蓋骨の表面を石膏でおおって顔像を作りあげた。この像はバッハの肖像とほぼ一致した。1895年に発表された報告の中で、ヒス博士はすべての証拠を要約したあと、この作業に協力した他の科学者と連名で、問題の骸骨はたしかにバッハであるという結論を下した。遺骨はこのあと聖ヨハネ教会祭壇下の墓所に移された。
 もしこの骸骨が事実バッハだとすれば―そして、これを疑うべき有力な理由はないのだが―作曲家バッハは身長約1メートル70センチ、頭は大きく体格の頑丈な男であり、現代に伝えられた数少ない写生肖像画に表現されている肉体的特徴をすべて備えている。バッハを専門とする図像学者は、絵による証拠がほとんど存在しないことを嘆息し、バッハの容姿がいったいどうであったか判別するすべはないと考える者も少数はいる。しかし現代に伝わるバッハの肖像画―どの絵でもバッハが当時の慣習に従ってカツラを着けている(一部の学者はカツラがはげ頭を隠しているのではないかと推測しているが)―には多くの共通点が示されている。鼻が際立って大きく、頬の肉は厚ぼったく、顎が突き出て、唇はきびしく引き締まっている。タフで強靭な男性的な顔であり、自分の権利のためには敢然と立つ男の顔である。妥協を許さぬ顔であり、狂信者の表情はないにせよ、自分の意志は通すという決意をはっきり表している表情である。

バッハ(2)
 以上のすべては、人間バッハの知られた側面とぴったり一致する。彼は頑固で怒りっぽく、付き合いにくい人間という定評があった。彼の弟子たちは、そしておそらくは彼の子供たちも、この厳格な人物を恐れたと思われる。彼は信仰心が篤く、ルター派の信者として生き、蔵書は(当時としては)極めて多数の宗教書で占められていた。彼は死の考えにつきまとわれていたようであり、天国と地獄が抽象概念でなくて、恐ろしい真理であった当時でさえも、同時代の人たちよりは、遥かに死のことに思い悩んだ。例えばヘンデルは極めて信心深かったけれども、自分は天国に行くのだという認識があった。ハイドンも同様であったらしい。二人は、自分たちが神の友人であると考えていた。だが、バッハは二人と異なり、神を遥かに恐れていたのである。ある時バッハは、音楽の目的と最終的存在理由は「まさに神の栄光を讃え、精神を再創造することでなければならない」と語った。
 バッハの性的衝動が強かったことは、彼の家族構成が立証する。彼は二十人の子供を作り、うち九人が彼の死後も生き残った。これはどの大作曲家が作った家族よりもずば抜けて多く、最大のものである。大家族がそれほど珍しくなかった当時でも、これは大きな規模であった。また、1706年にアルンシュタット市当局がバッハに手渡した譴責書がある。―「そこでさらに、最近彼が未知の乙女をオルガン室に入れて演奏させたのは、いかなる権限によってであるか、彼に聞きたい」。英ビクトリア時代のバッハ伝記家は『ロ短調ミサ』を作曲した聖なるヒーローが、未知の乙女に関心を持ったかもしれない、という示唆にびっくり仰天した。この未知の乙女はバッハが翌年結婚した、従妹のマリア・バルバラであるということになったが、果たしてそうであったのかどうか、決め手はない。
 バッハは結婚歴二回の健全な市民だったが、農夫のように倹約家であった。彼は一度も窮乏生活を送ったことはなかった。当時バッハ姓を名乗っていた誰よりも一番豊かで尊敬されたが、一銭にもけちけちし、あらゆる出費をきびしく監視した。この点、いとこのヨハン・エリアスにあてた手紙は愉快である。実際のところ、これはユーモアに欠けたバッハの人生でほとんど唯一の愉快なエピソードといえる。バッハはいったい笑ったことがあるのだろうか。たしかにバッハの作品には、他のどの大作曲家の作品よりもユーモアが少ない。ワーグナーでさえも『ニュルンベルクの名歌手』を作曲した。バッハの作ったユーモラスな音楽といえば、『コーヒー・カンタータ』『愛する兄の出発にちなむ奇想曲』、それにもう一、二の曲ぐらいで、彼の全作品中に占める量はごく少ない。

バッハ(3)
 ところでヨハン・エリアスに話題を戻すとして―エリアスが送ったワインのことにバッハの手紙は触れている。このワインの一部が運搬の途中、行方不明になったのだが、バッハは「神のこの貴い贈り物はたとえ一滴でもこぼしてはいけなかった」と大いに嘆いて見せ、それから急いで、自分は「しかるべきお返し」をすることができないと付け加えている。最後に次のような追伸がある。―「尊敬する私のいとこ(エリアスのこと)は親切にも酒をもっと送ると言ってくれているが、当地での経費が極めて高くつくため、お断りしなければならない。というのは運送代が16グロシェン、運搬人に2グロシェン、税関検査官に2グロシェン、内陸関税が5グロシェン3ペーニヒ、一般関税が3グロシェンもかかるので、私は1クォート(約0.95リットル)当たり5グロシェン近くも払わねばならず、贈り物を頂くにしては経費がかかり過ぎることをご理解願えると思う」
 バッハは1685年3月21日、ヨハン・アンブロジウス・バッハの八人の子供の末っ子として、ドイツのアイゼナッハに生まれた。祖父はクリストフ・バッハ、曽祖父はヨハネス・バッハとさかのぼり、先祖はファイト・バッハである。ファイトの生誕日は不明だが、死んだのは1619年であった。バッハ家の常として、一族の業績に大きな誇りを持っていたヨハン・セバスチャンは、「音楽一家バッハ家の起源」という系図を作ったことがあった。この系図によると、先祖のファイトは「ハンガリーの白パン焼き職人であり、ルター派を信仰したため十六世紀にハンガリー脱出を余儀なくされた」となっている。この系図の中でバッハが描いた老ファイトは魅力的な人物であり、「小さなシターン(ギターに似た楽器)を弾くことに最大の喜びを見出し、これを製粉所まで持ち込んでは臼挽きの間中、曲を演奏した(どんなに美しい音楽であったことか。この方法によって彼は、リズムを自分の体内に刻み込むことができたのである)。そして、いわばこれが、彼の子孫が音楽好きになった起源なのである」という。バッハは自分がハンガリー人の子孫であると信じていたが、現在ほとんどの学者は、ファイトはドイツに生まれてハンガリーに移住し、またドイツへ戻ってきたと考えている。
 ファイトの存命時にはハンス・バッハとカスパル・バッハもいた。ファイトはヨハネスとリップスを生んだ。ヨハネスからヨハンナ、クリストフ、ハインリッヒが生まれた。リップスからマイニンゲン・バッハの一族が出た。同家は営々と子孫を作り、次々に名音楽家を送り出して、二百年以上にわたり祖先の念願を正しく伝承した。音楽一族のバッハ家はアルンシュタット、アイゼナッハ、オールドルーフ、ハンブルク、リューネブルク、ベルリン、シュワインフルト、ハレ、ドレスデン、ゴータ、ワイマール、イエナ、ミュールハウゼン、ミンデン、ライプチヒと、ドイツ各地に分かれて根を下ろした。バッハ家は親密で同族意識が強く、互いに訪問し合い、演奏会をやり、ゴシップを交換し、一族を音楽上の要職につけさせることに努めた。ドイツのどこかで就職口があると、ニュースはたちまち大バッハ家の神経中枢に伝わり、末端各所に痙攣や反応を起こした。しばしばバッハ家の誰かが、その職にありついた。

バッハ(4)
 ヨハン・セバスチャンの父、ヨハン・アンブロジウスはアイゼナッハで非常に尊敬されていた教会オルガン奏者であった。彼はセバスチャンが10歳の時に死んだ(母はその前年に死んでいる)。セバスチャンと次の兄ヤーコブは、オールドルーフのオルガン奏者である年配の兄ヨハン・クリストフに引き取られた。セバスチャンがそこで過ごした五年間のことについては、あまり多くは知られていない。彼は才能に恵まれた子供だったに違いない。14歳で現在の高校3年生だったが、当時の高校3年生の平均年齢は18歳に近かった。彼はまたオルガンとクラビーアの演奏にすぐれていた(クラビーアとはハープシコード、クラビコード、スピネットなど鍵盤弦楽器の一般的名称である)。声楽もやり、バイオリンをよくし、おそらく作曲もすでに手がけていたと思われる。
 しかし、ここで論じているのは、どこにでもいるような才能ある若い音楽家ではなく、おそらく音楽史上最も驚くべき才能に恵まれた人物であるヨハン・セバスチャン・バッハなのである。従って、われわれは彼の少年時代について、もっと多くのことを知りたいと思う。この異常にすぐれた才能がいつ現れ始めたのか。彼は絶対音感を備えていたか(備えていたに違いない)。バッハ家の来歴からみて、遺伝的要素も考慮に入れなければならない。少年バッハの脳裏にどんな考えがよぎっていたのか。どんな音楽的、肉体的反射作用が働いていたのか。父や兄がいったいどんな訓練を彼に施したのか。―われわれは知らないのである。
 バッハの生涯の中でおもだった客観的な事実は知られている。15歳の時、彼はリューネブルクの聖ミカエル学校に通い、ハンブルクを訪れ、当時からすでに論争好きな若者であった。彼の人生は、宮廷または教会の役職を転々とすることに過ごされた。アルンシュタット、ミュールハウゼン、アンハルト・ケーテンの公爵の宮廷と移って、最後はライプチヒの聖トマス教会のカントル(音楽監督)を二十七年間つとめた。彼は在世中すでに非常に尊敬されていたが、作曲家としてよりは、むしろオルガン奏者、オルガンの技巧家としての評価の方が高かった。バロック音楽運動を頂点に押し上げたバッハは、主として多声音楽の上に建てられた殿堂を、急進的な新思想が揺るがせつつあった時代に生きた。晩年のバッハは学者くさい旧式な作曲家とみなされていた。バッハの作品は排撃され、スチール・ギャラン(優雅な様式)と呼ばれる、軽快でメロディックな単旋律音楽が幅をきかすようになった。この上品で優美だが、どちらかといえば浅薄な音楽は、のちほどバッハの息子ヨハン・クリスチャンをロンドンの人気者に仕立てるのであった。

バッハ(5)
 おそらくバッハは、こうした世間の傾向をあまり気にしなかったと思われる。彼が生きた時代は、芸術至上主義や、永遠のために音楽を作曲するといったロマン主義がまだ定着していなかった。バッハほど実際的で常識的な作曲家は、いまだかつていたことがない。当時のすべての作曲家と同様、バッハは自らを実務的な職業作曲家と考えていた。日曜日用のカンタータ、子供の教本、ある楽器を引き立たせるためのオルガン曲など、特定の需要を満たすために作曲活動を行うプロであった。もちろん、自分で特に出来がよいと思った作品は楽譜にして発表したが、大体において自作の大半は自分の死後消滅するだろうと割り切っていた。ライプチヒのカントルに就任した時、バッハは前任者の作品を全部処分したが、自分の後任者も同様に、思い切って手許にあるバッハ原稿を一掃するだろうと承知していた。カントルの仕事は、他人の作品ではなく自分で書いた作品を演奏することであったからだ。
 もちろん彼は自分の値打ちを知っていた。彼は初めから知っていたに違いない。彼を激怒させるものがあったとすれば、それはずさんな演奏技術、または彼自身が立てた基準に達しない演奏技術であり、その基準自体があくまでバッハ的なものであった。彼の全人生は、自分自身のレベルで演奏するという決意を物語るエピソードで綴られている。はやくも1705年にアルンシュタットで、彼はガイヤースバッハという名の学生と喧嘩をした。そのあげく、バッハは剣を抜いてガイヤースバッハに迫ったが、のちに『マタイ受難曲』を作曲することになるこの人物は、相手をやっつけようとしたにもかかわらず、またたくまに地面に転がっていた。事情を調べたところ、バッハはこの同僚を"ツィッペルファゴティスト"つまり、めすヤギのような音しか出せないバスーン奏者、と軽蔑的に呼んだことが判明した。バッハは譴責を受けた。「彼はすでに他の学生と折り合いよくやってゆけないという評判を取っていた」から、一層ぐあいは悪かった。
 しかし、バッハは態度を改めようとしなかった。彼は自分の可能性を知っていたようであり、自己流を続ける決心をしていた。自己の音楽の理想、また自己の芸術にひたり切り、自らを向上させ、勉強し、吸収できるものは何でも吸収しようという衝動―否、自らに対する強制―は、いかなるものも妨害できなかった。誰かが干渉すれば、必ず良からぬ事態が起こった。
 彼は1706年に、無断で職務を離れたと、譴責を受けている(ブクステフーデのオルガン演奏を聴くため、リューベックまで徒歩旅行したのであった)。彼は教会の礼拝時にオルガンで妙なハーモニーを演奏したと叱責され、演奏が長すぎたと叱責され、しっぺ返しに「逆の極端に走って、今度は演奏を短くしすぎた」ため、また叱られている。人と付き合わず、超然として人を見下す態度を取るとして、叱られている。「なんとなれば、仮に彼が教会と関係して俸給を受け取ることを、恥ではないと考えるとすれば、他の学生と演奏することを恥じてはならないのである」

バッハ(6)
 ワイマールで1717年に、彼は実際に牢に放り込まれている。これは「あまりにもしつこく辞めさせてくれと言い張った」ためだったが、バッハはケーテンへ行きたかったのである。ライプチヒでは金銭問題と手当てのことで絶えず選帝侯に文句を言い、やがて市評議会との折り合いが極めて悪くなる。評議会は彼が職務をなおざりにしたと非難するが、バッハの職務は非常に多かった。1723年、ライプチヒに求職の際、彼は職につけば次のことをやりますと書面で約束した。
 (1)私は少年たちに正直で控えめな生き方の模範を示し、学校に勤勉に奉仕し、少年たちを良心的に教えます。
 (2)この市の主要な二つの教会の演奏技術を、できる限り向上させます。
 (3)恐れ多く賢明な評議会に対し、全面的に敬意と服従を示し、その名誉と評判を守り向上させるために最善を尽くします。また評議会委員が少年たちの演奏を望まれる時は、ためらわずにこれを提供しますが、それ以外の場合は現職の市長殿と学校役員殿の事前の承知と同意がない限り、少年たちが葬式や結婚式のために町外に出るのを決して許しません。
 (4)学校の査閲官殿と役員殿が評議会の名前で出される指示には服従いたします。
 (5)音楽の基礎が出来ていなかったり、全然音楽教育に適していない少年は学校に入れませんが、査閲官殿と役員殿の事前の承知と同意がなければ、この措置は取りません。
 (6)教会が不要の出費をしないように、少年たちに声楽だけでなく器楽も誠実に教えます。
 (7)教会によき秩序を維持するため、音楽演奏は長すぎないように配慮し、オペラの印象を与えるよりは、聴衆に敬虔の念を起こさせるような音楽を演奏いたします。
 (8)神と聖徒の居住地にすぐれた学生を提供します。
 (9)少年たちを親切かつ慎重に扱いますが、彼らが服従しない場合は穏やかに訓戒するか、しかるべき部署に報告します。
(10)学校の規則および学校が私にやれということは何事であれ、これを忠実に守ります。
(11)そして私自身がこれを実行できない時は、評議会や学校に経費負担をかけることなく、他の有能な人物にやらせるよう配慮します。
(12)現職市長殿の許可なしに町の外に出ることはいたしません。
(13)少年たちと葬式におもむく際は、慣例が許す限り、歩いて行きます。
(14)そして評議会の同意なしに大学の職を受諾したり、これを望んだりはしません。

バッハ(7)
 そのうえバッハは、同市にある四つの教会全部の音楽番組の、すなわち生の音楽とその演奏の責任者でもあった。彼は毎週の礼拝のためにカンタータを作曲し、その演奏を指揮しなければならなかった。聖金曜日には受難曲を提供する必要があった。こうした仕事はすべて、カントルのポストにある人間のノルマだったが、このほか結婚式や葬式のためにモテットを書いたり、市の祝典に作曲するなど、公務以外の仕事もあり、彼はこれから収入を得ていた。彼は全くまじめな調子で「いつもより葬式が多いと謝礼もこれに比例して多くなる。だが吹く風がすこやかだと葬式が減る。例えば昨年は、葬式から入る謝礼が百ターレル以上も減って、大損をした」と言ったことがあった。
 ライプチヒでバッハは他人の協力、自分の収入、自分に与えられる評価のいずれの面でも期待を満たされず、例によって市当局者とやがて衝突し始めた。市評議員のシュテガーは怒りにまかせて、カントル(バッハ)は何もしないばかりか「この事実について釈明しようともしない」と言った。おそらくこれは、評議会がバッハに対してひそかに抱いていた疑惑を確認することになった。つまり彼がライプチヒに来たのは、評議会が適任と思う候補者が見つからなかったためだというわけである。評議員プラッツは「最上の人物が得られないので、凡庸な人物を採らねばならなかったのだろう」と述べた。こうしてプラッツは、歴史の脚注にその名を残すことになった。
 彼の言う「最上の人物」は、ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)であった。信じがたいほどの多作家で、死ぬまでに三千曲書いたことになっている。すぐれた音楽家であり、また見事な作曲家であったテレマンは、ドイツでは非常に人気があり、流行から外れたバッハは、とても彼に及ばなかった。
 このあと1736年に、聖トマス教会学校の校長ヨハン・アウグスト・エルネスティとバッハとの大喧嘩が起こった。これは学校を揺さぶり、評議会を狂気に駆り立て、バッハが頑固さと戦闘本能をあますところなく発揮した事件であった。エルネスティはヨハン・ゴットリープ・クラウゼという者を聖トマス学校の級長に選んだ。ところがクラウゼはお粗末な音楽家で、バッハは激怒した。彼は評議会に抗議し、エルネスティがやり返した。非難と反論が繰り返されたが、バッハは降りようとはしなかった。彼は教会会議に喧嘩を持ち込んだが、ここでも納得できずに選帝侯に直訴した。
 直訴状の宛名は「最も荘厳で偉大なフレデリック・アウグストゥス公爵閣下、ポーランド王、リトアニア・ロイス・プロシア・マツォビア・サモギチア・キョビア・フォルヒニア・ポドラヒア・リーフラント・スモレンスク・セベリア・チェルニーンホビア大公、ザクセン・ユーリヒ・クレーベ・ベルク・エンゲルン・ウェストファーレン候、神聖ローマ帝国大元帥ならびに選帝侯、ツーリンギア伯爵領主、マイセン・上下ラウジッツ辺境伯、マグデブルク城主、私の最も敬愛する帝王、選帝侯閣下殿」となっていた。この事件がどんな結末を迎えたか、知る者はいないが、バッハが勝ったと考えられている。

バッハ(8)
 要するにバッハという人間は、他人の言いなりにならなかったのであり、彼はこの態度を音楽演奏に持ち込んだ。自分の周囲の凡庸さに彼がどんなに憤ったことか。この完全無欠な音楽家、比類なき大演奏家、その理想が当時知られていた音楽的宇宙を全部包み込んだ作曲家、この巨人が、ライプチヒでは情けない学生たちや、自分が必要とし望んでいた実力を、遥かに下回る人間共と一緒に仕事をする羽目になったのであった。1730年に彼は、教会音楽隊に入れる最小限の資格要件を作った。市評議会への通告によると、聖歌隊には最小限十二人の歌手が必要だが、十六人いれば、なお結構である。オーケストラには十八人の楽員が要るが、二十人の方がさらに望ましい。
 しかし実際の手持ちといえば、四人の町雇い楽師、三人の職業バイオリン弾き、一人の見習い、と総勢たった八人である。しかも「彼らの資質や音楽知識について本当のことを語るのは、私の謙譲の美徳が許さない」とバッハは言った。彼はサジを投げた。こうした状況には、我慢がならないが、そのうえ学生の大半は才能を持っていない。ライプチヒの演奏水準が低下しているのはこのためだ、とバッハは言った。最後に彼は学生の質をこう要約している。十七人は"使用不能"二十人は"まだ使用できない"17人は"適性がない"のだが、これら五十四人がライプチヒの四教会の合唱隊を構成していた。一番運の悪いのは聖ペテロ教会で、そこの合唱隊は「音楽を理解せず、やっとコラールが歌えるだけの者」で成り立っている。
(「流しの音楽師」にバッハが触れていることに注意されたい。これら楽師諸君は何でもやれる音楽家だったらしい。1745年にバッハは、流しの一人でカール・フリードリッヒ・プファッフェという立派な名前を持った男を試験した。「彼は列席者が拍手を送るなかで、流し楽師が通常用いる楽器のすべて、すなわちバイオリン、オーボエ、横笛、トランペット、ホルン、その他の金管諸楽器を極めて上手に演奏することがわかり、彼の求めている助手のポストに好適であることが判明した」とバッハは書いている)
 さて、以上がバッハが取り組まねばならなかった素材であった。時々、特別の場合には、もっと多くの楽員を獲得することができた。『マタイ受難曲』のために彼は四十人以上をかき集めた。バッハが大演奏集団を切望していたのは明らかであり、今日"正統性"の名のもとに『ロ短調ミサ』や二つの受難曲のような大規模な作品を、1730年のバッハのメモに基づいて、少数の人間で上演するのは誤りである。もちろん、いかなる人数で演奏するにしても、バッハ的演奏を保持しなければならないし、完全な明晰さで作品を演奏しなければならない。しかし、これは大きな音を排除するものではない。

バッハ(9)
 バッハはこの未熟な素材で最善を尽くした。おそらく彼は、オーケストラの楽器の大半を弾くことができたとみられ、現代の指揮者とほぼ同じように手勢を動かした。ふつう彼は、バイオリンかハープシコードを演奏しながら指揮をした。初期の指揮法の歴史に関しては学問的研究がほとんど行われていないが、19世紀になるまで指揮者は実際に拍子を取ることはしなかった、と一般に考えられている。けれども、アンサンブルを指揮する人物がたしかに拍子を取ったことを示す証拠が、バッハ時代から豊富に存在している。実のところ、バッハが不運なクラウゼの試験をした際、特記事項として、この学生が性格に拍子を取れないこと、つまり「彼は二つの主要拍子、すなわち偶数拍子(四分の四拍子)と奇数拍子(四分の三拍子)を正確に取ることができなかった」と述べている。
 すべての目撃者談から判断して、オーケストラの先頭に立つバッハは支配者の様相を呈していたようである。彼はすばらしい読譜力を持ち「聴力は極めて繊細で、大アンサンブルの中でも、ごく些細な誤りを発見することができた」。指揮の最中、彼は鼻歌を歌い、自分の担当の楽器を弾き、リズムをしっかりと保ち、全員に演奏指示を与えたが、その方法は「一人目にはうなずくことで、二人目には足を軽く踏み鳴らして、三人目に指で注意することで、行った。また、一人目には自分の声の高音部で、二人目には低音部で、三人目には中音部で、それぞれ正しい音を指示した。
 これらすべてを、楽員の発する大きな騒音のさなかで、バッハがたった一人でやってのけた。彼は最も難しい部分を担当しながらも、いついかなる所で誤りが起こっても直ちに気づき、全員を団結させ、到る所で注意し、頼りなさがあれば、これを修正し、彼のからだの隅々にまで、リズムが漲っていた」――と、厄介なエルネスティの前任者だった聖トマス校長、ヨハン・マチアス・ゲスナーは演奏中のバッハの模様を描いている。
 バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルは、バッハが特に調律にやかましかった、と語っている。オーケストラ演奏でも自宅の楽器についても、バッハは調律に最大の注意を払った。「なんぴとの調律や弦張りも彼を満足させなかった。彼は何でも自分でやった。・・・最大のアンサンブルの中でさえ、ほんの小さな音の誤りを聞きとれた」。現代的な意味の指揮者の概念は、まだ考え出されていなかったが、バッハが名称以外のすべての点で現代の指揮者であり――おそらく、あの短気からして、怖い指揮者であったことを知るのは興味深い。

バッハ(10)
 彼の指揮法の細部はわからない。テンポがどのようで、どんなリズム観を持ち、いかなる表現手段を使ったのだろうか。今日、バッハの演奏法をめぐる微妙なポイントは、多くが消失してしまった。われわれはただ、ピッチ、楽器、装飾、潤色、バランス、それにリズムやテンポ、といったことにあれこれ推測をめぐらすだけである。例えばピッチの問題だが、バッハの時代は、今日よりまるまる一音低いことが往々にしてあった、と学者は断定した。しかし、現在も演奏可能なバッハ時代のオルガンが残っていて、その音階は今日のより高いのである。バッハがどのように楽器を調律したのか、もわからない。潤色については、バッハの作品中の潤色の書き込みに関する研究書が何冊も出ているが、権威者の意見が一致しないことが多い。それが全く意外でないわけは、バッハと同時代の権威にしてからが、意見の一致に到らなかったからである。おまけに、楽譜に記してあるよりも長く一定の音を演奏するといった、楽譜に書き込みのない慣例が色々あったようである。良心的な音楽家が専門研究を重ねたあと、やはり推測するほかないという結果に終わる。
 しかし演奏の慣例はうつろいやすく、世代に応じて変化するものであるのに反し、バッハの音楽そのものは、かつてなく強固な市を占めるに至っている。というのは、われわれは今や歴史的視点に立ってバッハの音楽を検討することができるが、これをヘンデル、ヴィヴァルディ、クープラン、アレッサンドロ・スカルラッティら、同時代の他の大作曲家の作品と比較する時、どのように測定してもバッハが全部を圧倒するからである。彼の想像力はだれよりも雄大であり、テクニックは比類がなく、和声感は表現性、創意の点で驚異的である。そして、バッハは旋律面では大作曲家といえないにしても、例えばアリア『汝よ、私のそばにあれ』や、まるで潮の満干のようにフレーズが静かに、堂々と、気高く進行する『トリオ・ソナタ・ホ短調』の緩徐楽章のような、言葉でいい尽くせぬ恍惚感を与える音楽を作り出すことができた。
 バッハはバロックの作曲家であった。音楽におけるバロック時代とは、およそ1600年から1750年までの期間を指している。偉大な人物たちが演奏したバロック音楽には、顕著なマニエリスム(=誇張の多い技巧的な)の作風がうかがわれた。それは神秘主義、豊麗さ、複雑さ、装飾、寓意、歪曲、超自然的な物または雄大な物の利用など、一切を突き混ぜたものであった。ルネッサンス時代(そして後ほどの古典時代)が秩序と明晰さを代表しているなら、バロック時代(そして後ほどのロマン派時代)は動き、混乱、不確かさを代表していた。バロック音楽はクラウディオ・モンテヴェルディ(1567―1643)や、オペラを"発明した"フィレンツェ一派らとともにイタリアで発祥し、あっという間にヨーロッパを席巻した。バロック時代になって、四部和声および数字が正しい和声を示している通奏低音が、目立って用いられるようになった。通奏低音はバッハにとっては神から授けられたシステム同然であり、彼はある生徒に次のように語ったといわれる。「通奏低音は最も完全な音楽の基礎であり、左手が楽譜の音を弾き、右手が協和音や不協和音を加えるような形で両手によって演奏される。これによって、神の栄光と人間精神の節度ある愉悦のために良い音の和声を作り出すことができる。すべての音楽と同様に、通奏低音の目的と究極の動機は、まぎれもなく神の栄光と精神の再創造になければならない」

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